本日、近畿初の「地盤減震システム」の基礎工事を開始!

 いよいよ「地盤減震システム」の基礎工事が、茅ノ台の地で始まりました。

関西以西で始めて、全国で7例目になる「地盤減震」という震度5以上の地震から住宅を守るシステムの工事を開始しました。

 今回は、開発者であり、登録地盤業者である東京のビイック株式会社からも3名の技術者が訪れ、当社の社員と共に、ベタ基礎下にハイブリッドシートといわれる特殊すべり材を全面敷設する作業を実施しました。

これにより、阪神大震災並の震度7(地盤の加速度800gal)に対し、建物の揺れを震度5(建物に伝わる加速度200gal)程度に低減させることが出来き、地盤と基礎とが縁を切ることで、建物を崩壊から守ることができるのです。

 

その減震シートの敷設作業の様子です。

ベタ基礎の下になるベースコンクリートです。今回+-1mmという誤差のフラットな盤面でした。防水シートを貼ります。いよいよ特殊すべり材を全面に敷設します。二面貼ります。最後に保護用ののゴムマットを敷設します。この上に鉄筋・・コンクリートと・・ベタ基礎をつくってゆきます。

 この敷設作業の様子を、地元「両丹新聞」社と建設業界誌「京都建設タイムズ」社が取材に来てくれました。

5月の連休には「ニュー蔵漆」としてデビューします。お楽しみに!

尚、このシステムに関する詳しい情報は、http://www.vic-ltd.co.jp/genshin/genshin01.htmlでご覧出来ます。

蔵の中から、こんなものが・・激動の日本史編

現在、酒蔵のあったお宅を、道路築造による移転のために解体や一部保存の工事をしております。蔵は、曳き家(メンヨーという)で再建します。150年以上の歴史を持つお宅も人力解体し、再建築を計画しています。

 そんな工事中の中から、ヒョンなことから貴重な歴史資料が出て参りました。解体処分されるはずの板に混じって、どうも気になる文字が見えたのです。「太政官・・」「なんだこれは!」良く読むと「太政官布告・・・慶応四年三月」正に、江戸時代(慶応)から明治に変わる激動の始まりの年ではありませんか!これは、あの太政官布告だ!・・ちなみに私は、大学時代史蹟研究会に所属しており、大学の史学科を志したこともありますので、この程度の知識はもっておりました。

早速大工さんに、この板はどこにあったのか、二枚しかなかったのか、を尋ねました。大工さん曰く、「全てを移転した空っぽの部屋に、棚板に板切れが二枚あっただけ。」とのことでした。それを、板ごみと思い、外に放り出しただけのようです。

ちなみに、この板(「高札」といいます)の話しを、早速インターネットで調べましたので、少しだけご紹介します。その前に、実物写真をご紹介します。

慶応四年(1868年)3月に、太政官(幕府に変わる新政府の形態)が五箇条のご誓文と「五榜の掲示」を太政官布告として出しました。旧幕府の高札を撤去し、そのかわりに五種類の高札を建てることを命じました。その内容をご紹介します。

 五榜の掲示
第一札:人としての「五倫の道」を正し殺人・放火・盗み等の禁止
第二札:徒党・強訴・逃散の禁止
第三札:キリスト教の禁止
第四札:万国公法に従うこと
第五札:郷村脱走(浮浪)の禁止
永年掲示「定三札」(第一札0第三札をいう)

今回見つけた高札は、この内の第一札と第三札の内容のようです。古い家を取り扱っていますと、様々な歴史を知ることが出来ます。当社の倉庫には様々な歴史が埋まっています。興味のある方は、是非お尋ね下さい。

ちなみに、この高札は丁重に家人の方に保管していただこうと思っています。

エエッ!! 割箸も立派なエコなんだ!

先日のブログでも紹介しましたが、綾部の鍛冶屋町にお住いになられた多田様ご夫妻を中心とする―里山的暮らし EKO TASK TEAM―という組織主催の「古民家再生を探る」というセミナーに、当社もご協力させていただきました。今回は、「伝統民家は成熟したエコロジー建築」と題して金沢工業大学&秋田県立大学名誉教授の鈴木有先生の講演を聞くことができました。この有意義な講演内容については、またブログでご報告させていただこうと思います。

今日は、そのセミナーに参加された方々の中にNPO法人「間伐材研究所」の方がおられ、間伐材新聞という情報誌に掲載されていた内容について書いてみたいと思います。

間伐材新聞第28号の扱った特集は、「割箸」についてでした。―特集 わりばし=私達の最も近くにある木材 割箸絶対指示宣言 残された「山への入口」を失うな!―というものでした。

以前から、「エコ」というものに関心を持つ人達の間で「マイ箸」という持ち歩きの箸が流行り、「割箸は資源の無駄使い」というイメージが浸透してきましたが、私的には、「マイ箸」の実践にどうもしっくりこないイメージがあり、なにかこの「マイ箸」の流行にのれないものを感じていたわけですが、今回そのモヤモヤを解決してくれるような特集記事でした。ただ、決して「マイ箸」を否定するということではありません。家では私もマイ箸を使っていますので・・・

そこで、この間伐材新聞に掲載されていた内容をご紹介したいと思います。まず―割りばしの知られざる基礎知識―から「もったいない」から生まれた歴史と伝統ということで、割箸が生まれたのは明治10年だそうです。奈良県吉野郡下市町の寺子屋の教師をしていた島本忠雄さんという方が、酒樽製造後の端材を捨てるのがもったいなくて、活用を考える中から杉の割箸を考案したのが始まりとのことです。ちなみに、箸の起源は紀元前15世紀の中国、日本には飛鳥時代に入り奈良時代に広がったとのこと。

日本人は千利休の時代から、箸を割るのは「おもてなし」とされ、木の香るできたての箸でもてなすことを礼儀としており、割箸を二本に割る行為は、今から食事を始めることの作法としてもあり、日本の文化になっていました。

もともと割箸は、その誕生の瞬間から、端材の有効活用という「もったいない精神」が息づいていたといわれるように、杉やヒノキの柱などに製材した残りの背板を使って製造されていました。これが本来の日本の割箸作りであり、製材とは切っても切れない縁でつながっていたのです。

そして今、新たに間伐材に新たな付加価値を見つけ出したのです。そのおかげで、山の手入れが可能となり、優良な木材が作られていくというのです。

25年前までは、国産の割箸の割合は80%あったそうです。ところが現在では、国産割箸の割合はわずか1.8%だそうです。主に中国等で作られる割箸は「ロータリー式」と言って原木丸太を大根のかつらむきの要領で薄い板を作り、それを刻んで箸の形にしていくやり方で、白樺やアスペンという材を使って作られているようです。この輸入割箸が「環境破壊」のレッテルを貼られる要因となっているとおもわれます。

国産割箸は、わずか2%あまり。とはいえ、年間4.7億膳、国産材でつくられた箸が存在しています。スーパーやコンビニ、ホームセンターなど4割のお店に国産割箸も陳列されているそうです。

今、「樹恩割り箸」という取組をきっかけに、国産の割り箸を使う取組が増えているそうです。割り箸が資源の無駄遣いではない。割り箸文化と塗り箸文化は違う。塗り箸は洗剤を使うので水が汚れる面もある。お互いの文化を理解しないと・・日本の木をどんどん使ってもらえば、いいこともたくさんある。割り箸は、日常の中で木に気づく絶好の機会だと。・・・・この話に、私も納得した次第です。詳しくはNPO法人 間伐材研究所まで

綾部市並松町上溝口20”3 TEL0773”43”1088だそうです。

これからの人生を楽しむ!一緒に楽しみませんか?

福知山市の勅使という場所に、古民家改造のモデルハウス場を開設していますが、近隣に里山と個人の平家を持っています。この場所で、炭焼き小屋も開放しており、多くの方々においで頂いております。また里山のクヌギ林や竹林にも、薪や竹炭の材料を求めて、阪神方面からも来ていただいており、多くの方達と交流がはかれるようになりました。

 この里山の中腹に、丁度現在の天津小学校の校庭が見下ろせる広い場所があります。実はこの場所は、2代前の天津小学校の校庭跡地ということのようです。

 実は、私はこの場所に露天風呂を設置する夢を持っています。

私も57才。そろそろ団塊の世代の後輩として、次の夢を考えなければならない年になって参りました。もちろん体力等に自信がなくなったわけではありませんが、次の人生を楽しむ目標をつくる時期が来たようにも思います。

 現在、炭焼きや薪造りなどを楽しもうとする団塊の世代の方々を見ておりますと、私も仕事とは別に楽しむ目標を考えたいな!それが仕事に結びつけば尚良い!と。そこで今思い描いているのが、”勅使の里山から由良川を見下ろしながら、露天の湯船につかる”構想な訳です

最近、その材料がある程度そろってきました。そのいくつかをご紹介したいと思います。

これはホーローの樽です。高さが1m直径が80cm位です。これで五右衛門風呂を造ろうと考えています。

次に、木製の樽です。(一度ブログに書きました)こちらは十分に203人が入れます。これより少し小さい樽もあります。

合計3つの樽をつかって、あずまやを建てて露天風呂を楽しむというわけです。そして、露天風呂を造る場所をご紹介いたします。

こちら、2代前の天津小学校の校庭跡です。絶景ですよ!

このプロジェクトを近に考えたいと思っています。興味ある方はご連絡下さい。

酒造場の大煙突の撤去:その2

昨日に引き続き、大煙突の撤去工事について記載します。まず、煙突を輪切りにする、ワイヤーソー工法です。煙突にワイヤーの刃のようなものを巻き付けて回転させて切ろうというわけです。

これが、機械を設置して切る前の状態です。

回転させて切り始めると熱と埃が発生するため、水を注入するのですが汚泥が飛び散りますのでビニールシート等で養生をします。

途中、ワイヤーソーの刃が中に食い込んでいきますので、クサビを打ち込んで重さがかからないようにします。

いよいよ切れましたので機械を撤去します。

そして切り離しです。

こんな切り口になっています。

ワイヤソーの刃です。拡大してみます。

真ん中の金属部分にダイヤモンドの粒が埋め込まれており、ザラザラしています。

ただ今酒蔵の煙突を撤去中!

何度か、ブログにも書いています酒蔵解体ですが。。。今回その酒蔵に附属する高さ15mの大きな煙突の撤去作業を開始しました。

まず足場を組んでいきます。

この煙突を「ワイヤーソー工」という工法で15mの煙突を4分割に輪切りにします。一分割する毎に、クレーンで吊りおろすというわけです。

その前に、「コアボーリング工」という工法で煙突に直径15cmの穴を4ヶ所空けます。これはクレーンで吊り下げるためのチェーンを通す穴です。

さて、一夜明けて本日はいよいよ切り離しです。一段目が切り離されました。

この切断工法について明日のブログでお伝えいたします。

北部の古民家見学写真 その2

舞鶴にもたくさん古民家があります。代表的な旧「上野家」をご紹介します。今は地元の記念館として公開されています。

こちらは、福知山市の「旧平野家」です。こちらも旧大江町の大雲記念館としてコンサートや様々な行事も行われ、一般に公開されています。

福知山の街中の由良川沿いを訪れると、地元町内会の方々が管理しておられる「治水記念館」を見学することが出来ます。

様々な洪水とのたたかいの様子を知ることが出来ます。一度訪れてみてください。市内の土地の低い場所に家を建てることをためらうかもしれませんね。?!

洪水の様子のビデオが上映されています。2階まで水が浸水してきて屋根に上がっている様子です。

京都府北部の様々な民家を訪れてみてはいかがですか?

先日ご紹介した「民家」の原稿を出筆するために、改めて様々な民家を訪れました。

丹後半島の伊根の舟屋や丹後地方の重要文化財である旧「尾藤家」や旧「三上家」・旧「上野家」・旧「平野家」などの豪商の民家の数々。また、洪水と戦った歴史を持つ町家(現在福知山の治水記念館)など。そして、今回掲載した様々の型をもつ各地の民家です。

どの民家にも印象ある風景やご案内の方々の姿がありました。その中でも特に脳裏に焼き付いているのは、旧岡花家の建物で現在大本教の敷地内に保存されている「摂丹型民家」である木の花庵の内部でした。毎日、囲炉裏に火が焚かれており、燻された香りと黒光りした梁や柱・床が、外の陽に萌ゆる若葉の緑と対比して、とても美しい光景でした。

また、「北船井型民家」に冬場以外は暮らしておられるという渡邊邸のご主人とお話しする機会がありました。茅葺きの山茅を集めるためのご苦労話です。葺き替えのための山茅の刈り取り時期は、11月から12月にかけてで、刈り取りに御夫婦で203週間かかるとのこと。3040cmの束を1200束は必要とのこと。大変なご苦労とお聞きしました。山茅の集積風景

伊根の舟屋群

宮津市の旧「三上家」

私が田舎をご紹介した方々のご活躍!

古民家再生を探る 

宅建業を営む当社では、京都府北部へ移住を考えておられる方々へ、「田舎ネット」等を通じて、田舎住宅や農家住宅、古民家などをご紹介しています。

昨年も、京都や東京、静岡、滋賀、大阪など各地から移住される方々の不動産の仲介を成立させてまいりました。そして、この北部の地で、皆様それぞれに伸び伸びと生活され、ご活躍されておられます。

今年は、今まで仲介を成立させていただいた方々に、当社の古民家等のイベントにおいでいただき、交流会をさせていただこうと考えています。

とりわけ、今回当社のHPにもご紹介させていただいています「空空舎」の多田様も、私がお住まいを仲介させていただいたお一人です。

今回、「里山的暮らしEKO TASK TEAM」によります”古民家再生を探る”という、セミナー+ワークショップを主催され、綾部の鍛治屋町の里山交流研修センター前にてお住まいでもあります。

阪神より移住されて、まだ1年の間に様々な取組をなされておられますし、地域の方々との交流のご様子が、ホームページから伝わって参ります。

興味あります方は、綾部の鍛治屋町の「空空舎」をお訪ねしてみてください。
http://www.karakarakan.com/index.php?FrontPage

阪神大震災から15年!将来の安全にいくら払う?

地盤減震システムを活用したニュー「蔵漆」住宅。実現へ!

  1/17には、6434人の犠牲者を出したあの阪神淡路大震災から15年目を向かえました。関西の人であれば誰でもあの日のことが脳裏に焼き付いているのではないでしょうか。

関東で育って“地震慣れ”していた私でさえも、「関西でもこんな揺れの激しい地震があるのか?」と、跳び起きてきた娘とまだ暗い外を眺め、あわててテレビのスイッチを入れたことを思い出します。

 昨年も、そんな思いで朝日新聞の防災の特集記事を読んでいた時に、目に付いた内容が次のような記事でした。・・・・・

”低コスト化実現”  シート2枚

これらの免震住宅に300万円前後が余計にかかるため、コスト面で敬遠する人も多い。この為、安価な技術の開発も進む。 地盤測量会社ビイック(東京)が昨年4月、「地盤減震システム」という名前で販売を始めた「シート免震」は、建物と地盤の間に特殊な樹脂シートを2枚重ねて敷くだけ。震度5以上でシート同士が滑り出す仕組みだ。 地震でずれた建物を元の位置に戻す仕組みが無いため、約150万円で済む。地震で建物は約5?ずれるが、住むのに支障はないという。小島修社長は「最低限必要な性能にして価格を抑えた」と話す。・・・・・

震度5以上の安全対策を買う?

 震度5といえば、阪神大震災で関西の多くの人が感じた「揺れ」の状態か、それ以上です。本棚や家具が倒れそうな状態の時に効果を発揮するという、このシステム。一生にそうあるものではないが、この程度の値段で“命と家が補償できるのならおもしろい”と考えて、私がビイック社の佐藤さん達とお出会いし、実際の建物を見学させていただいたのが、昨年の2月4日でした。

 あれから、早いもので1年が経ってしまいました。夏には、実験的モデルとして当社の資材倉庫前にこの地盤減震システムを取り入れた「公衆トイレ」を完成させました。

 今回いよいよ、当社の蔵漆ニューモデルに、この地盤減震システムを取り入れた基礎で、当社の住宅を売り出していく計画です。

「民家」投稿 その4

●丹後型民家・・丹後ちりめんの地帯

 この型がみられる地域は、主に丹後地域(宮津・舞鶴・丹後半島地域)と丹波西北部(福知山市近辺)です。

 元々は、広間型、「広間三間取り」といわれ、土間であるニワに面した居室(シモンデ、ダイドコ)が広い一室になっており、その奥に座敷(オモテ)と寝室(ヘヤ・ナンド)が並ぶタイプです。

 その後、旧永島家住宅(京都府指定文化財、京丹後市から宮津市の府立丹後郷土資料館に移築)にも見られるように四間取りに変化したようです。「ダイドコ」と「ナベザ」の仕切りが開放的で同一構成をとっていて一体性の強いものとなっています。(旧永島家住宅の間取りでは、シモンデ部分をダイドコ、ダイドコ部分をナベザとしています。)

 丹後ちりめんで有名なこの地域は、江戸時代末期に養蚕・製糸が盛んになったこともあり、当初は主屋の部屋がそのまま蚕室に使われたようです。広い土間空間を確保するためか、梁行に太い地梁を渡し、小屋組を叉首組の方法でつなぎ材を用いて補強しています。部屋上部に換気や採光のための窓も設けられています。

 炊事施設としての「ロクダイ」も丹後型の特色といわれています。土間に設けられた「オクド」とは別に「ナベザ・ダイドコ」から張り出した低い床の上に小型の「オクド」を据えた構えで、小型のオクドは「ナベザ・ダイドコ」近くに設置しています。つい最近までの台所施設の原形なっていたものです。なお、土間のオクドは、マヤにいる牛などの家畜の餌の煮炊きに使用していました。

 この地域にも、未だに多くの茅葺き民家は存在しますが、美山地域のように多くが茅葺きのままの地域は少なく、大半が鉄板覆い屋根の民家となっています。ちなみに、舞鶴市では1985年の市消防署の調査によると茅葺き民家1016棟のうち鉄板覆いが753棟となっており、20年経った現在ではこのうち3割近くの茅葺き民家が姿を消していると思われます。

 なお、以上に紹介した茅葺き民家の屋根の材料についてみると、京都北部が山間地域ということもあって708割が山茅(ススキ)と思われますが、地域によっては葦や麦わら、稲わらが使われています。丹後半島の山奥の地域ではクマザサを使用した例もあり、鉄板覆いの下にクマザサが残されています。

手前の大きなオクドとナベザ側に見えるのは炊事施設の小さなオクド「ロクダイ」です。

これらの写真は旧永島家の内部写真です。資料館になっていますのでいつでも見学できます。一度行ってみてください。

「民家」投稿 その3

●摂丹型民家・・大阪・兵庫に隣接する地帯

 この型の名の由来は、昔の摂津国(大阪・兵庫)と丹波国(兵庫・京都)に広く分布し、この地域を摂丹高原(山地)と称していることにあると思われます。

 妻入りで床上部と土間が縦割り型の間取りとなっており、部屋が直列式で通りニワ(土間)型というような特徴となっています。

 能勢型ともいわれるように、大阪の能勢地方や兵庫県の篠山市周辺に相当数が現存しています。

  小屋組は、北山型、北船井型と同じ「オダチ・トリイ型」です。

この摂丹型については、直列式の独特な平面形式をもつ妻入り形式の民家ということで、多くの方々が研究報告していますが、妻入りの家を平入りの家より上格の家構えとするニュアンスが伺えます。摂丹型は16世紀頃に、地域の名主・地侍などの村の上層部の住居形式だったということのようです。妻側から入る場合に必ず目につく破風の存在ですが、当時は破風の使用にも許可が必要なほど特権的なものだったということのようです。

摂丹型の古い遺構として旧「岡花家」(重要文化財。元は船井郡京丹波町に存在)があり、17世紀中頃の建立といわれています。現在は綾部市の大本教本部に移築保存され、「木の花庵」として茶会などに使われています。

今も毎日囲炉裏は火入れがされています。

炭焼き・・その後

火入れしてから506日、更に火入れ口をふさいで506日たちました。煙が少なくなったようで、いよいよ取り出しです。・・・・・今回まだ火が残っていました。大分、燃えてしまったようです。

今回は、30%位しか炭にならなかったようです。結構炭焼きも難しいようです。次回は竹炭に挑戦のようです。

「民家」投稿その2

●北船井型民家・・京都市の西に近接する地帯

 この北船井型の分布する地域は、京都市の西(旧船井郡)現在の南丹市の南部という比較的狭い地域に分布しており、北山型と同系と考えられています。

 この型は、「平入り」(平側からの出入り)で整形四間取りになっており、北山型が整形されてできた型といわれています。小屋組も北山型と同じく「オダチ・トリイ型」です。

 現存する渡邊家住宅を訪れると、「石田家」のような「上げニワ」はなく、広くなった土間(ニワ)がみられ、シモンデ(入口に近い室・部屋)とマヤ(厩)が隣接しており、これらからも北山型の系統に属していることが推察されます。

 この地域も、林業地帯ではあったのですが、他の地域よりも早く農耕へ変化したことが、この農業用の広い土間からも伺うことができます。

代表的な住宅・・渡邊家住宅(船井郡京丹波町)

これらは全て渡邊家住宅の内部です。ご主人は冬季以外はほとんどここで生活されているとのことです。お訪ねしたときも気軽に家の中を案内してくれました。一度見学に行ってみてください。

NPO日本民家再生協会誌「民家」への投稿から!

数年前から日本民家再生協会(JMRA)の正会員になっています。昨年の夏、-新名称「日本民家再生協会」記念号(no.67)に、・・我が地域の民家(9)・・京都府北部の民家・・という題材で投稿させていただく機会を得ました。その掲載内容を4回に分けて紹介したいと思います。

●茅葺き民家が多く残る地帯・・

私の住む福知山市をはじめとする京都府北部の地は、嘗ては日本の行政区分では「丹波国」と呼ばれ、山陰道に位置し、現在の京都府中部・北部、兵庫県北部・中部の東側地域にまで及んでいました。

今回は、歴史的に名高い京の都を離れた府北部、丹波・丹後における「民家」について紹介します。

 JR京都駅の一番北西の端に、本州の西の果て下関に通じる山陰本線のホームがあり、そこが丹波・丹後への旅の玄関口となります。

京都駅を出て特急で1時間余り。農家、町家、漁家といったそれぞれ特徴のある民家が点在する風景が見えてきます。美山の藁葺き民家、伊根の舟屋を代表とする伝統的建造物群や地方都市(綾部、福知山、舞鶴、宮津)の町家を始めとする数々の重要文化財の存在です。それはまた、きびしい冬の雪や海の漁との、あるいは洪水とのたたかいを刻む民家の姿でもあります。

恐らく、この京都北部の地は全国的にも、多くの茅葺き民家が残る希なる地帯であると思われます。

ここでは、福知山を中心とした50km圏内に今も残る藁葺き民家についてとりあげます。

●特徴ある四つの茅葺き民家の型・・

 福知山周辺には、次の4つの型の茅葺き民家が存在します。

○北山型民家 ○北船井型民家 ○摂丹型民家 ○丹後型民家

●.北山型民家・・京都市の北部に近接する地帯から

この北山型の茅葺き民家は、昔の丹波東部山地一帯(京都市北部山間部から旧北桑田郡・現在の南丹市北部)に分布し、原則として「妻入り」(妻側からの出入り)で平面の間取りは喰い違い四間取り(四室)を基本としています。

構造は、柱が小屋組内でたち上がり、その上に渡された梁上に棟束を建てる「オダチ・トリイ型」という小屋組です。

屋根の形態は茅葺きの入母屋造に装飾性の高い破風と棟上の「うまのり(千木・チギ)」が特徴となっています。この千木は美山地方では家格を表し、本家筋は7本、分家筋は5本といわれていたとのこと。

土間(ニワ)は「上げニワ」とよばれ、他の室(部屋)の床高をそろえて、土を高く盛り、タタキで磨き上げています。

北山型の分布する地域は、今でも北山杉で有名な産地であり、昔から林業による生活が中心であった為、他の地域の農家型のような広い土間を必要としない狭いつくりとなっており、壁も板壁が多いのが特徴です。

この型の民家が多数存在する地域として、現在南丹市美山町が有名であり、現存する茅葺きの屋根だけで約230棟(2003年現在)あると言われています。とりわけ、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている北地区の集落は、農家住宅の主屋34棟あるなかで離れも含め茅葺きが29棟・鉄板覆いが6棟集中しており、岐阜の白川郷に引けを取らない、すばらしい里景色の地となっています。

また美山町には、年代の明らかな民家としては最古とされる「石田家」(1650年)や、北山型の中でも威容を誇る大庄屋の「小林家」住宅など北山型民家発展を知る上でも重要な建物が多数存在しています。

北山型の石田家住宅(南丹市美山町)

大庄屋の小林家住宅(美山町)

解体した酒蔵の壁土の保管!

酒蔵の解体から発生する廃棄物の中に、壁土があります。今回、酒蔵の壁厚が厚かったので、大量の壁土が発生しました。

この土は、貴重な再生資源です。茶室等の建築には大変貴重なものです。保管するには、屋外にシートをかけて保管しますが、臭いが結構発生します。新築等の土壁として利用するのも、新しい材料と混ぜてみても、乾燥が早くなり、冬場等の乾燥の厳しい時に非常に良いとのことです。

なるべく土だけを選別し、保管場所に運びます。

竹中大工道具館を訪ねて!

 先日、酒蔵解体の中からでてきた”「ちょんながけ」の欅”のお話しをブログで載せましたが、「ちょんながけ」の説明をするのを忘れていました。 大工道具の一種で、梁や柱をつくるときに使用する「削る道具」の「釿」(ちょうな・ちょんな)で削られた痕跡を「ちょんながけorちょうながけ」といいます。

昨年の暮れに、滋賀や愛知で古材や古民家再生に取り組んでいる仲間と神戸の「竹中大工道具館」を訪ねました。 その会館に、その「釿」(ちょうな・ちょんな)が展示されておりました。この「竹中大工道具館」、昭和59年にゼネコンの(株)竹中工務店が最初に本社を置いたゆかりの神戸にと、建設したものです。 ここに、前述した「釿」を始め、カンナ、ノコギリ、玄翁(ゲンノウ)といった有史以来からの大工道具が二万点以上展示されています。

 日本の大工道具は、7世紀末の法隆寺造営の頃には、既に今日の基本的な種類の道具はそろっていたそうです。 故人である東大名誉教授であった村松貞次郎氏は、大工道具への視点―今日における大工道具の意義―という語りの中で、

「日本の大工道具は道具の王者である。すばらしい木造建築の伝統のかげに、大工の肉体の一部となり、心を映して使い馴らされてきた多くの大工道具があった。建物は華々しく人の眼に映るが、道具は大工とともにそのかげにひっそりと退き、・・・・息をひそめて細工の掌中にあった道具を想うと、哀切の念は深い。・・」と述べています。

 今回、酒蔵の解体によって、保管された欅(けやき)柱もまた、この大工道具によって残された痕跡とともに百年、二百年と生かし続けてあげたいと思っています。

古民家で今年初の三線教室!

  勅使にある当社の古民家で、三線教室をしています。メンバーは子供も入れて1708名です。

月二回の第二・第四土曜日の夜に練習しております。ほとんどのメンバーが関西生まれの沖縄に縁のない人たちばかりです。「沖縄文化研究会」と名乗って、沖縄の様々な文化にふれようと、三線の演奏を中心に活動を続けています。

 昨年も当社のイベントをはじめ、地域の行事に参加してきました。今年も、いくつかお呼びがあるようです。

 私は、代表者の福富さんに勧められ、数年前に高い三線を購入いたしましたが、全く上手になりません。常にイベントの時のカメラマン役です。

 ちなみに私は、父が「ウチナンチュー」(沖縄生まれ)で、琉球音楽も聞いて育ったのですが、泡盛と琉球料理以外はどうも苦手のようです。

 ただし、お酒がある一定の量を過ぎると、突然「ウチナンチュー」になると、友人がいっておりました。

酒蔵の中にあった欅の柱

先日からブログに書いている酒蔵の解体が始まっています。詳しくはすべてのプロジェクトが決まってから書いていこうと思っていますが、今回道路計画に関連して酒蔵を解体しなければならなくなりました。この蔵は一度50年ほど前にも道路計画で移設したもののようです。再び、解体されることとなった蔵の通し柱の数本に目が行きました。よく見ると欅です。さらに、「ちょんながけ」の痕跡があります。この柱は、その以前は梁として使われていたのかもしれませんね。

 今回、保管しておいて、当社の新築建物の大黒柱に使ってみたいと思います。その先はお楽しみに!