還暦を前に思うこと。自らの誕生日をむかえて。

 満59歳になりました。昔の「数え」という年齢だと60歳になることになります。来年はいよいよ「還暦」だとか。還暦は字の通り、「暦(干支)がもどる・かえる」という意味で、甲・乙・丙・邸・・の十干と子・牛・寅・卯・・の十二支を組み合わせた60通りが一巡する事を意味するとのこと。私は「巳」年生まれで、来年が5回目の「巳」年を迎えることになります。
 今では少なくなりましたが、還暦には赤いちゃんちゃんこや頭巾などを近親者が贈る習慣がありますが、あれは赤ちゃんに還る=生まれた年の干支に還るという意味や赤は魔除けの色とされているためらしいです。
 そういうことを意識するわけではありませんが、最近私のネクタイは赤が多いです。先日、安いゴアッテックスのスキーウェアーも赤だったし、気がついてみると前年買ったスキーパンツの色も赤でした。
改めて60年の人生の総括を考えて、次の新たな人生を考えてみたいと思っています。
 昨年の3月の東日本大震災も大きな衝撃となっていますが、生きるということを考えさせられる旅をしました。
つい先日3月に入り、業界関係者と南九州に行く機会がありました。
伊丹空港から、鹿児島までの飛行機の旅でしたが、久しぶりにプロペラ機・JASのボンバルディア機ということで、故障や事故で有名なこともあり、久しぶりに緊張する雨の中のフライトでした。親会社でもあるJALの経営再建に向けて、最近は燃費のかからない小型機やプロペラ機がだいぶ復活しているようですね。
 さてここで、最初に向かったのは南九州市の「知覧」という町です。ここは、第2次世界大戦の末期に、多くの若者が「神風特攻隊」としてプロペラ戦闘機で出撃した知覧飛行場があったことで有名な場所です。
 今は、「知覧特攻平和会館」があり、当時飛び立った特攻部隊の若者たちの遺品・遺書がたくさん展示されています。今回知覧に行くと聞かれ、近親者から68年前に特攻で飛び立たれた方の遺言書を納めてきてほしいと委託された旅でもありました。
十数年前に一度訪れたことがありますが、その時の鮮烈な印象は今でも忘れておりません。今回も、会館の中の遺書の文面を読みましたが、読むそばから涙が出てしまい、多くを読まずに外に出てしまいました。
当時の若者たちの思いを考える時、何とも無念さを感じながら死を選ばなければならなかったのではと思えてなりませんでした。その意味をあらわす端的な言葉が「母」という文字に表れていました。多くの若者がつづった遺書の端端に「母上様」という文字が書かれていました。十二支を二巡もせずに散って行った多くの十代の若者達の無念さを感じずにはおれません。
 昨年の震災での19000名あまりの被害者の方々も、同じ思いであったと思われます。
 せっかくいただいた人生二巡目に向かって、新たな働きをしたいとおもっています。合掌


会館内はすべて撮影禁止です

当時の面影を残す塀舎の跡

当時の写真が展示されておりました



この碑にも「母」の文字が

ゼロ戦の残骸が展示されていました。外より撮影

知覧から飛び立った隊員は1036名、供養の石灯篭を募集したところ、全国からそれ以上の提供があったとのこと。
知覧の道路はこのように石灯篭がたくさん並んでいます

 
 
 
 
 
 
 
 

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